『静岡県地域史研究』第14号に拙稿が掲載されました。抜き刷りの献本は11月ごろになるかと思います。松平信康は天正8年1月15日、蟄居先の堀江で亡くなっていること。築山殿は一次史料により天正13年4月までの生存が確認できること。等々新しい視点を提起しております。 pic.twitter.com/QCc3AjEChH
— 高橋陽介 (@aquable1732) 2024年9月29日
調べたところ、松平信康が亡くなったとされる天正八年ていうのは、西暦に直すと1580年ということで、本能寺の変の2年前ということになります。築山殿が亡くなったのは信康の死後、更にその5年後で、本能寺の変の後も彼女は生きていたということになり、少なくとも私達が日本史の勉強や、大河ドラマを見て信じてきた歴史とはまったく違っています。数年前に松平信康が切腹をしたとされてきた二俣城を、彼を偲ぶ意味で見に行って来た私は何なんでしょうか(苦笑)
私は日本史が好きなので、そっち系の本を読んだりテレビをよく見たりしますが、近年の研究でそれまで信じてきたこととまったく違う史実が浮き彫りになることがチョイチョイあります。《賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ》という言葉があるんですけど、その前提の歴史がこうもいい加減だと、もはや何を信じていいのかよくわからなくなってしまいますし、教科書は過去の内容とまったく違った記述をしなければなりません。
他にも江戸時代の田沼意次は所謂《賄賂政治》で有名ですが、実は江戸幕府に貨幣経済を導入しようとして守旧派に失脚させられたとか、忠臣蔵でお馴染みの吉良上野介は優秀な《キャリア官僚》だったとか・・・特に江戸時代は講談が盛んで、語り手が話を面白可笑しく、今で言うと《話を盛った》為に、それが歴史上の真実として定着してしまった事も案外多いみたいです。
その一方で歴史は勝者が作ると言い、のちの権力者が自分達の都合のいいように歴史を書き換えるっていうのは、古今東西よくある話ではあるんですけど、新しい資料が見つかる度に、知識を入れ替えなきゃいけないのは正直ちょっと面倒です(笑)。
とか言いつつ、新しい史実が発表される度に、「うぉぉぉマジか!」と喜んでしまう自分もいるわけで、まったく因果な性分だなと思ったりもするわけです。
終