おっさん天国 物欲の泉

日々物欲にまみれ、煩悩の海に溺れて暮らすおっさんがおススメしたい、あんな物・こんな事をご紹介いたします。

駿府城

 

賛否両論ある『どうする家康』を放映中ですが、例のブログでその家康の隠居城『駿府城』について書いていたことを思い出し、今回も得意のコピペでその記事を転載したいと思います。ちなみに書いたのは2006年11月です。( ゚Д゚)

いやはや月日の経つのは早いものだと本当に唖然としてしまうのですが、それではお付き合いのほど何卒よろしくお願い申し上げます。 

 

 

 

 (前略)駿府城と言えば、徳川家康の隠居城として有名です。もちろん、隠居とは名ばかりで、江戸時代の初期には江戸と駿府で二元政治が行われていたのは皆さんご承知の通り。 しかし、話はもっと遡ります。

 竹千代こと後の徳川家康は幼少の時期を『今川氏』の人質としてこの地で過ごしました。今川氏は駿河遠江三河、すなわち、今でいうと静岡の沼津くらいから愛知の東半分までを支配下に置く、石高は約百万石の、戦国時代にあっては相当な大・大名でした。

 

 かなり昔の話ですが、県立美術館を駿府城の中に作ろうとして、元の駿府会館の辺りを掘り返したところ、今川時代のものと思われる遺構が発見され、いわゆる、『今川館』が、今の駿府城とほぼ同一の場所にあったことが確認されました。要するに、今も昔もあの辺りは駿府の中心地だったワケですね。

 

 

で、もうちょっと時代は下ります。今川氏の滅亡後は隣国甲斐の武田氏が駿河を支配しますが、その武田氏も織田信長によって滅亡。今度は信長の盟友徳川が駿河支配下に置きます。この時代、家康は駿府城を築城するのですが、すぐに関東への国替えになり、豊臣の家臣『中村一氏』がこの地を治めることとなります。が、間もなく豊家崩壊。再び徳川の領地となり、大御所『家康』の隠居の地となります。

 しかしまぁこんなにも短時間に、かくも領主がコロコロ変わったっていう土地も珍しいんじゃないでしょうか?それって、たかだか40年くらいの間の話ですから。
八方美人で調子がよくって、誰にでも愛想を振り撒いて、当たらず障らずっていう静岡人気質っていうのは、領主とその方針がめまぐるしく変わったこの時代に出来上がったものかもしれません。

さて、話は戻ります。徳川の時代になり、駿府を隠居の地と定めた家康はいわゆる天下普請で駿府城の大改修を行います。それが今の駿府城

三重の掘をめぐらし、本丸には六重七階の天守閣がそびえていたとのこと。こんな感じらしいです。

 

 

家康は西から江戸に来る者に富士山とこの天守閣が並んで見えるように配慮したといいます。
ちなみに縄張りを担当したのは藤堂高虎。城造りの名人と言われた大名です。結局、天守閣は火災にあって焼失。以降は造られることがなく現在に至ります。天守閣があった場所は、たぶんさっき話に出た元の駿府会館のあたりです。(注 近年その石垣が掘り起こされ一般に公開されています。)
 ところで、この文章は学研の『よみがえる日本の城』を参考に書いているんのですが、この本にはCGで当時の天守閣を再現しています。上の写真がそれなんですけど、でもそれを一目見て正直」

 

 

え?

 

 

って感じでした。というのも一般的には豊臣系の天守閣は黒く、徳川系の城は白いっていうイメージがあったから。周りの櫓は白壁なんですが、なんで天守閣は黒くなってんだろう

 

 

名古屋城(徳川系)

 

 

 

岡山城(豊臣系)



 

 

 

 実際かつて造られた模型は白壁で、たぶん静岡の人はこちらの方をイメージ人が多いと思います。

 

SUNOPU博(1989)の時のもの

いったいどちらが正しいのだろう。誰か教えて下さい。

 

 とにかく今は天守閣がないどころか、本丸の堀さえ埋め立てられて公園になってしまっているのは歴史オタクにとっては実に悲しい事ですす。近年、巽櫓と二の丸東御門が復元され、マニアのせめてもの慰めになってはいますが。

 

 

 


が、いつの日かこの不遇の時代を乗り越え、本丸の堀を完全に復活させて、その上で是非是非六層七階の天守閣を復元してもらいたものです。出来れば木造で!っていうのは予算の面でも、建築基準法の面からもできない相談ですかね。でもコンクリート製の天守閣じゃあ味気ないしなぁ。
よし、いっそのこと天守閣を造って、中を市役所にしちゃうってのはどうかしら?はたまた、有事の際には天守閣がパカって割れて、中から巡航ミサイルが発射されるとか。ミサイルの名前は『大御所1号』とかがいいんじゃないかと。

 話をもとに戻します。家康は城を造るのと同時に城下の整備も行ないました。今の静岡の街並みも基本的にこの時出来たもの。街の名前にも往時を偲ばせるものが多いです。呉服町、紺屋町、両替町等々。

 

 


 そういえば、かつてはここ駿府に銀座があって、後にそれを江戸に移したという事実は静岡の人間ですら案外知らなかったりします。そう、あの銀座です。
 家康のいた時代の駿府は大変に賑やかだったようです。なにしろ日本の事実上の支配者がいたところで、その家康に会うために国内外の様々な人達が駿府に集まったんだそうです。ある意味その時期は日本の首都みたいな場所だったんでしょう。

 

最後に・・・私は天守閣とか残っている、例えば姫路城みたいな豪華絢爛な物凄い城より、石垣しかないような城跡の方が好きだったりします。それは子供の頃から駿府城の石垣をずっと見てきたからでしょう。そして時々無性に駿府城を見に行きたくなります。このブログをご覧の皆さんにも静岡市に来た折には是非駿府城に立ち寄っていただければと・・・・うまく(?)まとまったところで今回の記事はおしまいです。

 

 

 

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